トルソー
トルソーとは、簡単にいえばマネキンみたいなものだ。よく洋服屋さんに飾ってあり、衣装を着てる。
服を展示する用の人型のマネキン。
ものによって様々な形があるが、私が好きなのは頭部と四肢がないトルソー。
胴体だけのシンプルな形で造形美を感じさせる。
多くの人にとってトルソーは単なる洋服屋のマネキンだろうけど。
それでも、いやだからこそ私はトルソーの隠れた美しさに惹かれたのかもしれない。
トルソーを意識したキッカケはある小説だった。
豊島みほの『ぽろぽろドール』
中学の図書室で借りて読んだと思う。
不思議な読後感だった。
優しいような包み込むような突き放すような悲しいような
あどけない絶望、みたいな。
上手く表現できないけれど、当時の私はドール、人形のもつ生命の無さ、無感情さみたいなものに寄り添いたい気がした。
人間のぐちゃぐちゃした感情や激情に振り回されることに嫌気がさしていた。
人と関わるよりも、無機物と過ごす方がよっぽど心温まると、あの頃どこかで思っていた。
その思いが煮詰まった結果一人きりの今があるのかもしれない。
ぽろぽろドールはたしか短編集で、その中でトルソーがメインの話があったのだ。
大学のとき読み返そうと思って文庫版を買ったら、そこにはその話が入ってなくて、結局読み返せず、内容はほとんどすべて忘れてしまった。
それでもトルソーへの意識や興味は心の奥の方に残り続けていた。
ある雑貨屋さんでトルソーに出会った私は運命を感じた。
そのトルソーは暗がりの中で光っているように見えた。照明の加減とかもあるけど、そういうのを超越して存在感を放っているように、私には見えた。
赤や薄紅色の花の柄があしらわれたトルソー。
静かにひっそりと、でも確かにそこに鎮座していた。
トルソーなんて買っても使わないし、場所をとるし、とかも思った。
だけど、私は結局その存在を無視できなかった。
トルソーが私の部屋にきて少し居心地悪そうにしてるのを見て心が安らいだ。
あのトルソーは今も未だ私の中で大きな存在で、でも一番輝いていたのはお店にぼおっと浮かび上がっていたあの姿であることだけは確かだった。
綺麗で特別な存在も手に入れば汚れて霞んでいく。
欲しいと、手に入れたいという願望が幻想の輝きをもたらすのだと痛感する。
どんなに特別でも平凡に成り下がってしまうのは必然なんだろうか。命もそう。
そんなことを思うのだった。